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半世紀以上生きてきた私が躁鬱病の寛解まで復活した経験とカウンセラー・メンタルトレーナーとしての言葉を綴ります。

一挙再掲!「私の恋文」

昨年公開したものですが、まだお読みでない方は連休の暇つぶしに読んで下さい。






◇◆はじめに◇◆




これから私が書くお話は実話です。


ただ、


原作:連城三紀彦


主演:渡部篤郎、和久井映見


「恋文」


というドラマと内容が酷似しています。




しかし、実話なのです。


興味のある方はお読みください。




~~~~~~~~~~~~~~~




私の大学生時代はほとんどがサークル活動の日々でした。


「ピアノ研究会」




私は生まれつき目が悪く、母親が、「目がダメでも耳は大丈夫」ということで、


貧しい生活をしているにもかかわらず、7歳のころからピアノを習わせてくれました。




最初は、父が大型ゴミで拾ってきた足踏みオルガンで練習していました。


ところが周りの予想を遙かに超えて、私は日々上達してゆき、


半年後にはバイエルを修了。先生から「そろそろピアノにしませんか?


この子の才能は私が保証します」と言われるほどでした。




しかし、炭鉱社宅の長屋に住んでいる我が家にピアノなんて


高価な物を購入する余裕はありません。




私はそれを知った時、初めて我が家が貧しいんだということを知りました。




ピアノの先生は無償でレッスン日を増やしてくださり、厳しくも愛情あふれる


指導をしてくださいました。




そして、1年が経ったある日、学校から帰宅すると居間に、周りと不釣り合いな


黒く輝くアップライトのピアノが届いていました。




私には腹違いで14歳離れた兄がいるのですが、その兄がローンを組んで、購入してくれたのでした。


最初に鍵盤に触れたときの感動は未だに忘れられません。、




それから私はピアノ三昧の生活が送れると思っていたのですが、


我が家にはもう一つ問題がありました。




父が三交代の仕事をしていたので、昼間にピアノを弾けない日が多かったのです。


おまけにその父は酒乱。毎日のように母に手をあげていました。




そんな家庭で私は許された時間はピアノに熱中することで現実を一瞬でも


忘れることができました。




学校では病弱でひ弱な私はいじめの対象になり、ピアノが上手いと評判になると、


「男のくせに、ピアノを弾いとう~」と冷やかされていました。




私が不登校にも引きこもりにもならなかったのは「ピアノが他人より上手い」という


自負があったからでしょう。




今の時代では考えられない状況でした。




中学生になると、当時はフォークソング時代で、友人に誘われて、フォークソングに


はまりました。




しかし、目標は「ピアノ」で食べていくこと。


厳しいレッスンを受け続けました。




当時は「3年B組金八先生」のシーズン1が放映されていた時代で、


私の通った中学校はドラマと同じ状態の「荒れた学校」でした。




私はピアノが弾けるだけではなく、成績もまあまあで真面目だったので


クラス委員に選ばれることが多かったです。




そういう生徒はいじめの対象となりやすく、ひどい暴力も受けました。




しかし、ある日を境に私の人生は逆転しました。




ある日、また暴力を受けて血だらけの私を見た女子生徒達が、


「鶴添くん、先生に言わないとずっとやられるよ」と言って私を職員室へ


連れて行ってくだました。




すると先生は、「君はクラス委員だから、クラスのことは君に任せる。私は忙しいんだ」と。




私は耳を疑いました。後でわかったことですが、その先生は昇任試験を受けるために


勉強していたということでした。




その先生の言葉で、私は真面目に生きていくことが馬鹿らしくなり、不良グループの仲間に入り、


校舎のガラスを割ったり、先生の車を壊したり、ドラマののように道を転げ落ちていきました。


ただ、その頃に「なぜ先生はあんなことを言ったのだろう。俺も教師になって確かめたい」と思うようになっていました。




「音楽の先生になりたい」。そう決めた私は前にも増してレッスンに励みました。


高校も音楽系の高校を探し、音楽の勉強を本格的に始めようと思いました。


しかし、男子が通える音楽系の高校は一つしかなく私立で学費も高額。


貧しい我が家にそんな余裕はなく、両親や兄弟の「高校は普通科に行って大学は音楽大学に行けばいい」


という言葉の通り普通科の高校を受験することにしました。




不良になる前の志望校(進学校)とはほど遠い普通の高校を受験し、たいした勉強をしていなくても合格しました。


それでも高校は荒れた学校ではなく、普通の高校生活を送るつもりでした。




高校でもフォークソング同好会に入り,音楽中心の生活は続きました。




ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)やCBSソニーオーディションに応募もしました。


もちろん予選落ちですが。




志望校は東京芸術大学、なんていうとアホかと言われそうですが、本気で考えていました。


すぐに学力的にも才能的にも無理だとわかりましが。




それでも音楽大学を目指し厳しいレッスンは続きました。




そして高校2年生の時、志望校を決定するために、ピアノの先生のもとへと母と向かいました。


先生はピアノの能力は、例えば国立(クニタチ)音楽大学や武蔵野音楽大学などにも


行けそうだという話をしてくれました。




すると母は東京で生活させるだけの余裕はないと消極的な返事をしました。


さらに追い打ちをかけるように、先生は「声楽や楽典も勉強しなくてはいけません」と言いました。


そのためにはレッスン料が倍になることも。




母は「やっぱり貧乏人には無理よ。音楽は趣味にしなさい」と言って、さっさと帰ろうとしました。


私は「バイトをしてがんばるから」と言いましたが、聞く耳を持たず、私も仕方なく帰ることにしました。




その日から1週間部屋に閉じこもりました。


高校に行っても、帰りは友達のバイクの後ろに乗って夜遅くまで走ったり、


友人の家の納屋でバンド活動をしたりして現実を忘れようとしました。




俺から音楽を取ったら何が残るんだ!




そんなことを考えているとき、友人を探しに図書館に行ったときのこと。


入学以来片思いしていた美香ちゃんが図書委員の作業をしていました。


私が片思いをしていることを彼女は知っていましたが、友人としていつも


優しく接してくれました。




そんなこんなで、私の図書館通いが始まりました。


もちろん目当ては美香ちゃん。


しかし、美香ちゃんをじっと見ているわけにもいかず、


ふと手にしたのが太宰治の『人間失格』。


読書の習慣の無かった私は3日かけて読みました。


それから太宰の作品を次々と読んでいき、自分と太宰を重ねて考えるようになりました。




そうして私は厭世観を持つようになりました。


自分も40歳までは生きないだろうなとなんとなく思いました。




それから次第に三島由紀夫にも興味を持ち、大学に入ったら学生運動(右翼活動)をしようなどと


考えるようになりました。




そして、高校3年生の志望校決定時には自然と文学部志望になりました。


その後私は国語の教師になるわけですが、きっかけはそんな他愛もないことなのです。




本気で文学部に行こうと決めたのは高校3年生の2学期。


当然間に合うはずもなく、後に職場にもなる予備校で1年間浪人し、費用があまりかからない地元の公立に入学しました。




「恋文」の本題はこれから始まります。




大学は国文学科には入ったものの、1年生の間は一般教養ばかりで、講義には興味が持てず、


(今の大学は違うそうですね)学内をぶらぶらしていたある日、新入生歓迎の催しがあり、


いろんなサークルの人からお誘いを受けました。少林寺拳法とか(笑)…。




どれにも興味を持てずぶらついていると、アップライトの電子ピアノを弾いている先輩がいました。


(サークル会館4階から階段で運ぶんです…)。男性だったので珍しいなあと思って、立ち止まっていると、


おもむろにやさしそうなお姉さんが、「ピアノに触れてみませんか?」と声をかけてきたので、


「暇つぶしでもしてみるか」と思って、得意の曲(ショパンの英雄ポロネーズ)を弾き始めました。




すると、だんだん人目を感じるようになり、弾き終わると拍手が沸き起こりました。


元来目立ちたがり屋の私は久々快感を得ました。


群衆の中から、会長を名乗る先輩が、「ちょっとレベル違うけど、良かったらうちに入りませんか?」


悪い気はしなかったので、その場で仮入部のサインをしました。




部室に入ってみると、予想とは違い、個人練習は時間帯を区切っているボードはありましたが、


(もう一台部室に残っていた)ピアノを弾いている人はおらず、部員達は談笑していました。


いろいろ話してみると穏やかな人ばかりで個性も豊かで今までに経験したことのない心地よさを


感じました。




同じクラスにも「ピアノ会」に入っている学生がいて、その娘と仲良くなりました。




同時に私がやりたかった右翼運動に関わる団体はなく、70年代左翼の生き残りの団体があるだけでした。


ただ、自治会というものがあって、ここは政治的なものを感じず、おだやかに論議し合える場でもあったので、


よく顔を出していました。




きっかけは各クラスに作られる「コンパ委員」(要するに宴会の幹事役)が仲良くなり、(彼ら彼女らとは卒業後も付き合いが


続くことになります。)その集会が自治会で行われたことでした。




半年経っても相変わらず講義には興味が無く、サークルと自治会で過ごす毎日でした。


今はどうなっているかわかりませんが、当時のサークル会館は24時間開放されていて、自宅が遠い私は、


サークル会館に泊まったり、友人の下宿に泊めてもらうことが多かったです。




国文学科は女子学生が多く、サークルも女子部員が多く、今までにない環境に、最初はとまどいがありました。


それまで全くもてなかった私はかすかな期待を抱いていました。


しかし、女友達はたくさん出来ますが恋人はまったく…。




それでも、恋人が欲しかった私は、ひたすらアタックしまくりました。


数打ちゃ当たるわけでもなく、自分の評判を落とし続ける一方でした。




そしていつの間にか、私は夜一人で部室のピアノを弾いて過ごすことが多くなりました。


そんな時の女子学生との出逢いが物語が本題です。




余談ですが、入学したとき、部室にはグランドピアノがなかったのですが、先輩方の考えで、


グランドピアノを購入することになりました。


「ヤマハ」にOBがいらっしゃり、当時のお金で80万円のピアノを準備してくださいました。


毎月一人1500円を4年続ければ完済できる計算でしたが、私が卒業するときに、計算通り


返済できました。


そのピアノが今残っているのか知りたいところですが、卒業後一度も部室には行っていません。


どうなっていることでしょう。あまり評判のいい会長ではなかったので、後輩には慕われなかったし。


思い出の場所に35年後も行けないでいます。




大学生活は相変わらずピアノにしか心を開かない毎日でした。


しかし、表面上は友達を作るのに一生懸命でした。




そんな日々のある夏の昼間、誰もいない部室でピアノを弾いていたところ、


(昔は空調は付いていなかったので、暑くて人の出入りは少なく、風を


通すために、扉を開けていました)


扉のあたりで咳をする音が聞こえました。




近寄ってみると、小柄の女子学生が立っていました。


「こんにちは」


その声に惹かれて目を見ると、驚くほど澄んでいて輝いていました。


「ここで聴いていていいですか?」


彼女は微笑みながら明るい声で話しかけてきました。


「もちろん、いいですよ。僕の演奏なんかでよければ…」




恥ずかしながら全く女性にもてなかった私は、


「チャンスだ」


なんて思ってしまいました。




それから30分ほど演奏して、


「暑いけど中に入って麦茶でも飲みませんか?」


と誘うと、彼女は右足を引きずりながら、


「失礼します」と


部室に入ってきました。




話を聞いていると、マンドリンクラブに所属している同学年の娘だということがわかりました。


名前は歌織ちゃん。


「素敵な名前ですね。」


「両親が音楽好きだから付けてくれたんです」


「じゃあ、歌うのも好きなんだ」


「いえ、生まれつき心臓が悪くて、あまり体力が無いんです」


「そっか。それじゃ今度マンドリン聴かせて」




マンドリンクラブはサークル会館の同じ階。


それから毎週のように彼女は部室を訪れ、たまにマンドリンを


持ってきて合奏したりしました。




そして、暑い夏も終わろうとしていたころ、マンドリンクラブの部長がピアノ会の


部室に訪ねてきて、冬の定期演奏会に出演するはずだったゲストのピアニストが


指を怪我してしまったので代役は頼めないかと。




急な話で、対応できるのは私しかいなさそうでした。


歌織ちゃんのこともあって私は即答で引き受けました。




それから、週に2、3階、音楽ホールでの練習が秋まで続きました。


歌織ちゃんとの関係も徐々に密になってきました。




本番は1500人収容のコンサートホールで満席の中行われました。


私の演奏は、少しミスタッチはあったものの超絶技巧の部分で観客を


魅了することが出来ました。




演奏会が終わって片付けも終わると打ち上げです。


自分の所属するサークルの宴会よりも盛り上がり、


帰りは私が歌織ちゃんを送ることになりました。




お酒の勢いもあって、ついに歌織ちゃんに交際を


申し出ました。




答えは、


「私はこんな体だし、男性とお付き合いなんてできないです。


でも鶴添君のピアノはずっとそばで聴いていたい」




私はこれで充分でした。


純愛でした。


一点の曇りもない瞳を輝かせて、歌織ちゃんがそばで自分がピアノを


聴いてくれる。


それだけで充分でした。




しかし、私の自己中な性格のせいで幸せな時間は消滅してしまいます。




粉雪の降る夜。私は部員達に頼んで、歌織ちゃんの誕生日サプライズを


計画しました。




いつものように歌織ちゃんが部室の前に来たのを確認して、クラッカーを


鳴らし、みんなでハッピーバースデーの合唱合奏。


ささやかなパーティーにする予定でした。




ところがクラッカーが鳴った瞬間、歌織ちゃんは「ダメだって言ってるじゃない!」


とささやいて、足を引きずりながら去って行きました。




私たちは何が起こったかもわからず呆然としました。


それ以来、歌織ちゃんが部室に来ることはありませんでした。


マンドリンクラブも辞めたという噂をあとで聞きました。




私は「やっぱり自分に魅力がないんだ」と自分のことばかり考えて、


また孤独になりました。




実は私は大学での活動以外に、地元の勤労青少年ホームというところでも


音楽活動をしていました。




歌織ちゃんのことがあって寂しい気持ちをそこの仲間達とのふれあいで


慰めていました。


そしてそこで知り合った看護師志望の女性とつきあうことになりました。


しかし、白衣の天使からも私の自己中を指摘され失恋しました。




またもとの寂しい生活に戻りましたが、教育実習が始まり、自分の将来を


真剣に考えなくてはならない時期が来ました。




その時期にフラフラしている私を支えてくれたのが5歳年上の今の妻です。


妻と知り合って私はすぐに結婚のことを口にするようになりました。


妻の年齢も理由の一つですが、実家(貧しくてアルコール依存症で暴力を振るう父がいる)


から早く独立したいという気持ちが強かったのです。


またもや自己中です。




しかし、妻は「学校の先生になるまでは結婚しない」と私を突き放しました。


その言葉で目の覚めた私は何とか卒業論文も提出し、高校教諭の道も開けました。




3年間教師を経験して後、教師という仕事に限界を感じた私は、予備校講師に


転職しました。


教師になってみて、あの、中学生のときの担任の先生が私を見捨てた気持ちが


わかりました。


私は教師として生徒を立派な社会人にすることができなかったのです。


私の力量のなさもありますが、保護者との関係、社会の中の教師の立場が


あまりにも理想からかけ離れていたからです。




話は前後しますが、教師時代に妻と結婚しました。


予備校講師の生活は勉強の毎日でした。


たいした能力も無い講師が、東大京大志望の生徒に指導するのは


至難の業でした。




しかし、朝早く出勤して、夜は門が閉まるまで勉強を続けた結果、


40歳になる頃には、ちょっとした人気講師になるころができました。




そんな時です。大学時代の友人から電話がかかってきました。


「歌織ちゃんが入院している」という内容でした。


私は病院にすぐ駆けつけました。


そこには学生時代と変わらない澄んだ瞳の天使のような姿がありました。




「ごめんね鶴添君。連絡しないでおこうと思ったけど、容子(大学時代の共通の友人)が


知らせた方が良いって言うから。」




声を聴いて驚きました。とても苦しそうで、か細い声。でも笑顔は変わりませんでした。


それから、仕事の都合の付く限りお見舞いに通う日々が始まりました。


またそれも自己中です。




歌織ちゃんの病室を訪れたときはたくさん話をしました。


今考えても、よく話題が尽きなかったなあと思います。




歌織ちゃんの調子の良いときは病院の屋上に車椅子で連れて行き、


街並みを眺めながら語り合いました。




「やっぱり田舎がいいなあ」


「ここだって充分田舎だよ」


「うん。でも私が育った田舎は草原があったの」


「空気が違うの。楽に息ができた」


「そうか。病気のためには空気が綺麗なところがいいね」




「鶴添君と行きたかったなあ」


「……」


「草原でピアノを弾いてなんて言わないわよ」


「私はね。生まれてすぐ施設に預けられたの」


「お父さん、お母さんの顔も知らない」


「大学だって奨学金と施設への寄付でできた基金からお金を


出してもらったの」


「大学のテキストやマンドリンもみんなお下がりだったのよ」


「施設で育ったなんて知らなかった。ごめんね。なんか振り回しちゃったんだね」


「ううん。私が好きだったんだからいいじゃない」


「……」


「ああっ、勘違いするな!鶴添君のピアノが好きだったんだよ!」


「今度、その草原のある施設へ一緒に行こうよ。車は軽自動車だけど…」


「いやあ、鶴添君、運転下手そうだからなあ」


「なんでわかるの?」


…笑




私は歌織ちゃんのことを全然知らなかったのです。


自分の歌織ちゃんが好きだという気持ちに溺れているだけで。




仕事が休みの日は歌織ちゃんのもとへ行き、


出張の帰りにも立ち寄って、一晩中付き添うこともありました。




さすがに、妻からは不審に思われ問い詰められました。


私は正直に学生時代のこと、今の歌織ちゃんとのこと、


これからも通うつもりだということも伝えました。




「私は5歳も年下の男性(人)と結婚するんだから浮気される覚悟はしていたわ。


でも、今あなたがやっていることは浮気じゃなくて本気だよね」


「……」


「その女性(ひと)はあなたが結婚しているって知ってるの?」


「いや、何も言ってない。俺はもてなかったから独身だと思っているかもれない」


「知らせないことね。心臓が悪いんでしょ?ショックを与えるのはよくないわ」


「あなたが好きなようにしなさい。でも家庭は捨てないでね。


まだ子供達は独立していないし、ローンだって残ってるし」


「……」


「私は許してはいないからね。多分一生許さないと思う。でも最近のあなたは


過労のせいで家にいるときは寝てばかりで私と口もきかなかった。そんな


あなたが元気でいられるのならそれでいい。でも無理はしないでね」


「ごめん…。ありがとう…」


私は涙が止まりませんでした。




半年後、歌織ちゃんは寝たきりになり、酸素吸入をしなくてはならなくなりました。


それでも明るく振る舞い、私とも会話を楽しみました。




あるとき、


「ウエディングドレス着たかったなあ」


と独り言のように言いました。


しかし、現実的には叶え難い望みでした。


私は聞こえなかったふりをして、策を講じました、




合成写真。


パソコンが得意な友人がいたので、頼んでみると可能とのこと。


早速、歌織ちゃんの写真の中から正面で映っているものを選び、


貸衣装屋に行って、特別に写真を撮らせてもらいました。


データを友人に渡して一週間ほどして歌織ちゃんのウエディング姿の


写真が出来上がりました。


今から10年以上前の話ですが、当時はすでにPCでの写真編集は


一般的なものになっていました。なかなかのできばえでした。


そしてそれを今度は器用な女友達に頼んでデコレーションしてもらいました。




出来上がった写真を歌織ちゃんのもとへ届けました。


見るなり歌織ちゃんの瞳が潤み、一言、


「ありがとう…。でも鶴添君がいない…」




私は一瞬よく聞こえませんでした。


「え?」と聞き直すと、


「隣に鶴添君がいないって言ってるのよ」


「歌織ちゃん…」


「嘘嘘、そんなこと言って本当に隣に写っている写真を


持ってこられても困るから」




私はドキドキしながら歌織ちゃんの手を握り、


「元気になったら一緒に写真を撮ろう」


微かですが、確かに歌織ちゃんはうなずきうなずきました。




それからしばらくたったある日、妻が言いました。


「歌織ちゃんに会わせて」


「いやあ、それは…」


「心配しないで。バンドの仲間と一緒に行くから」




勤労青少年ホームの仲間は事情を知っていましたし、


そのうち何人かは大学時代、歌織ちゃんとも会っていました。




妻と歌織ちゃんを知っている仲間と4人で病院に行きました。


「お久しぶりです」「はじめまして」


それぞれ挨拶を交わして、和やかな雰囲気で時間が過ぎて行きました。




歌織ちゃんに負担がかかるといけないので15分くらいで、


私以外は帰って行きました。




「ごめんね歌織ちゃん、疲れただろう?」


「ううん。みんないい人でよかった」


「そうそう、昨日マンドリンクラブ時代の友達が来たんだよ。はい、


このCDかけて」


CDを再生すると、大学時代、私がゲスト出演したさいの演奏会の模様が


録音されていました。


「俺、ミスタッチしてるんだよなあ」


「大丈夫だったよ。鶴添君ごまかすのも上手なんだもん」


「そうそう、平気な顔をして指揮者を見るんだよな、俺は間違えてないよって」




こんなやりとりも次第にできないほど歌織ちゃんの病状は悪化していきました。




歌織ちゃんの容態は日に日に悪くなっていきました。


輝いていた瞳もうつろな感じになっていきました。




施設の担当者の話によると、この1週間が山場だということでした。


話は前後しますが、歌織ちゃんは大学卒業後、自分の育った施設の職員になりました。


入院してからは施設の人が身元保証人となりいろいろな世話をしてくれていました。




私は歌織ちゃんの食べたいもの観たいものを何でも準備してきましたが、


歌織ちゃんは何も話さなくなってしまいました。




私は可能な限りそばにいました。




そして、ちょうど今頃の季節で、蝉時雨の賑わしいころ、携帯に着信があり、


職場で私は歌織ちゃんの死を知りました。




残念ながら通夜には参加できず、葬儀の場で、薄化粧をした歌織ちゃんの顔を


見ました。


幸い苦しまずに安らかに息を引き取ったということで、寝ているような表情でした。


葬儀はしめやかに行われ、遺骨は施設を運営するお寺に納められました。




自分でも不思議なくらい涙が流れませんでした。




葬儀の帰りに施設の人から一通の手紙を受け取りました。


歌織ちゃんの筆跡でした。




「鶴添君。これを読んでいるということは私はもうこの世にいないんだね。


本当にいろいろありがとうございました。


お礼の意味を込めて正直に言うね。


大学時代、鶴添君のことが好きでした。


そう、これはラブレター。


でも、あなたは学校の先生になって素敵な女性と結婚して、


健康な子供を授かって幸せな人生を送るべき人だと思いました。


私と付き合うと鶴添君は優しいから私のために生きようとしたでしょう。


それが耐えられませんでした。


私は物質的にも精神的にもたくさんのものをもらいました。


この写真はお礼になるかな…。


でも奥さんには見せないでね。


もちろん部屋に飾ったりしないこと!(やりそうで心配)


最後に…。私と出会ってくれてありがとう。


再会してくれてありがとう。


これからは家族のためにピアノを弾いてね。


私は空の上でいつも聴いています。


さよなら。(オフコースの曲みたい)」




涙が止めどなく流れました。


手紙と写真が濡れないようにするのが精一杯でした。


私が結婚していて子供もいることを知っていたのです。


写真にはウエディングドレス姿の歌織ちゃんの隣に


タキシード姿の私が写っていました。


合成写真を合成されてしまいました。




家に帰ると妻の第一声は、


「写真はまたあなたのお友達に頼んだんだからね。お礼言っといて。


どっか好きなところに張ったら?」。




そう、合成の合成は妻の仕業でした。


歌織ちゃんには内緒で大学時代の友人に頼んだらしいのです。




でも写真は張らずに、大学時代のアルバムに付け足しました。




これからは家族のために生きよう。家族のためにピアノを弾こうと


決めました。




しかし、その時にはすでに私の心は崩壊していたのでした。




以前妻が指摘したように、私は歌織ちゃんと再会する直前まで、


過労とストレスで休日は寝たきりの生活でした。


内科医に相談しましたが、


「疲れているときはそんなもんですよ」


で済まされました。




すでにうつ病の兆候があったのに見逃されたのです。




当時はまだ「心の病」が社会問題化されていない時代でしたので、


仕方ないと思います。


現在は内科でも「うつ病」のチョックをするようになっているようです。




そんなボロボロだった私は、歌織ちゃんと再開したことによって、


テンションが異常に上がり、さらに無理をしたのです。




歌織ちゃんが雲の上に去った後、すぐ寝たきりになりました。


出勤も不可能になりました。


当時の私はまだ予備校から必要とされていたため、


3ヶ月の休職が認められました。




しかし、それでも以前のような勢いはなく、年々受験生からの指示、


職場での評価は下がっていきました。




さらに、心療内科の最初の主治医が、私の行動から、


「双曲性障害」、いわゆる躁鬱病と診断し、テンションが上がらない


薬を処方していたのです。




それに気づいたときには職場の評価は下がりに下がって、


どうしようもない状態になったので、思い切って主治医を替えて、


療養型の病棟に入院しました。




そこでの合宿のような生活のおかげで、症状は少しずつ改善し、


心理学とも出逢い、自分が相性の合うカウンセラーと出会えなかったことから、


カウンセリングの勉強も始めました。




皮肉なことに職場ではほされていて、カウンセラーの資格をいくつも取る


時間がたっぷりありました。「ココナラ」で実践も始めました。




そして、まるで計画したように、出勤途中に転んで大けがをしたことが


きっかけで予備校から退職勧告を受けました。




生活の基盤が崩れたのに、不思議と焦りはありませんでした。


すでにカウンセラー開業の準備を進めていたので、3年前に


カウンセラー生活を始めました。






経済的には収入が半減(いや3分の1かな)し、生活は楽ではありませんが、


毎日早起きして散歩して、シャワーを浴びてメールを確認し、朝からカウンセリングを


する日もあれば、夜中にする日もありました。


結構収入を得ることは出来たのですが、広告費がかさみ、純益が増えなかったので


広告をやめました。


さらに後払い制にしていたので不払い事案が多くありました。




すると新規のクライアントさんが減って収入も減りました。


しかし、ありがたいことにリピーターの方がいらっしゃって、


ある程度の収入は保っています。




収入を補うために大学病院で3日に1日のペースでアルバイトをしています。




気がつくと今では、孫も生まれ、毎日妻ともコミュケーションがとれ、


平和な日々を過ごしています。




特筆しておきたいのは、私が病んでから、毎日メールや電話をくれたり、


定期的にドライブや食事に付き合ってくれた大学時代の


友人の存在です。


前にも書いた、歌織ちゃんの親友です。


心理学を学ぶきっかけをくれたのも彼女です。


もちろんお互い恋愛感情はありませんでした。


ただ、妻に申し訳ないので、自分から距離を置きました。


しかし、彼女には心から感謝しています。






第1回で書いたとおり、連城三紀彦氏の「恋文~ラブレター」と酷似した


体験ですが、一度整理をしたくてこの度ブログに連載することにしました。




稚拙な文章を読んで下さりありがとうございました。






~完~






🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹




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